ゆる判(引越先)

ゆる判(うすあじ

手描き消しゴムはんこ彫る人。そのゆくさき。#yuruhanga

広島との距離感


広島平和記念資料館がリニューアルオープンとのニュースを聴いて
この機会に書いておきますね。


実家が治療院をしていました。
小さい頃から怪我をした人、特に小さい子供の悲鳴など聴いておりました
痛みを比べることはできませんけれども、
他人の感じている痛覚が、悲鳴を通して自分の中で自動再生されるようなことが
いつのまにかできあがっておりまして、
子供も大人もひどい怪我に苦しむ、もしくは苦しんだ結果の姿というのは
心にの奥底に残り、忘れてもふいに思い出したりするものでした


広島、この数年でよく行くようになりました。

初めて広島という場所を知ったのは小学校1年の頃で

教室や学童保育や図書館で
写真集や絵本や漫画や絵画に触れることがきっかけでした


倒壊した家に押し潰されたり
重い火傷で皮膚がずるずるになったり
爆風などで眼球が飛び出していたり
身体が痛めつけられる描写でした

2年生の頃、3駅隣の街で戦争の展示があって、それを見に行きました。
学童保育で見学の行事があったのだと思うのですが友だちと見た記憶がない
(それでも帰りに学童保育所から自宅に戻った記憶はあるのできっと誰かは居たのでしょう)

たいへんな衝撃でした
それまで絵本や写真は平面
そのひに みたてんじは りったいですから
きいたことがない ひめい
かんじたことがない いたみ

それが すぐそこにある

なまなましいおそろしさ に正気が保てなくなったのだと
今にしてみればそう思います
親にも友だちにも誰にもそれは話せないまま

その時から8月6日しか知らない広島にとても距離を置いてしまったです。
壁かもしれません
小4の夏休みに田舎で式典の中継を見ることはありました
距離も壁も常にありました

初めて広島に行ったのは高校の修学旅行です
行程は倉敷→広島→萩 2泊3日

この辺の記憶も割と曖昧で
倉敷広島間はバスだったのか電車だったのか
広島の駅舎から電停までなんだか茶色い印象をもった記憶もあるし
産業奨励館だった建物を初めて見たときのスケール感は観光バスから見た記憶もあるし
(実際はもっと大きいものだと思ってました)
駅でバスに乗り換えることがあったのかどうか…旅のしおりどこにあるんだろう…

本川側でバスを降りてガイドさんに平和公園内を誘導されて、上空600米あたりの目安の駐車場のマークとか高いマンションが建つ予定があるとかの話を聞いて、資料館に入ったことまでは覚えてるです

資料館に入ったけれど言葉にできない。
小学校のときの 衝撃に むきあえたのかといえば
たぶんむきあえなかったんだとおもう
屋根の骨組み
ジオラマと赤い球
服と弁当箱と三輪車
火傷の跡

出た後もほとんど直線でしか歩いてない。
燃料会館は見ないまま。

学校も時間をあまり取らずで宮島は行かなかったと思う。
カメラは持って行かなかったし写ルンですも買わなかった。

さて
次に広島に行ったのはだいぶ時間が経ったあとです。
2005年(1月中旬19日前後*当時の日付付きのものが出てきたので追記)ごろ広島駅から広電に乗って。
なるべくゆっくりしました。
パルコの近くでケーキを買いました

元安川沿いに歩いて、昼間は比治山まで登って
夜はもう一度中島本町を歩いて当日の夜について想像しました

*思い出し追記
比治山に登った時お墓のあるところを通ったのと
広島現美の前にある2種類の階段を降りた先の広場。
あの先が中心の方向だったのでしょうか
資料で見た同心円と被害状況を頭のなかで組み合わせて
元の形を喪ってしまったさまざまの大きさが
より具体性・現実味を持ったなあと思い出しました。

祈念館に入ったけれど資料館には行けなかったです
しばらく近くで立ち尽くして言葉をなくしてました
喉に残った小骨のような心残りココロの凝り

翌日は宮島へ。
鹿がいるの知らなかったので驚きました。
夜の海を生まれて初めて見ました。
写真はとってない…気がする。デジカメどうした?
お好み焼きをお好み村で、辛いつけ麺をどこかのお店で食べました。

次に広島を訪れたのは2013年夏。
ここがターニングポイントになったのだと思います。
(続きはまたいずれ)



まとまりなくてごめんなさい